神農 巌 ものづくりの世界
神農 巌ものづくりの世界
私が陶芸と出会ったのは大学時代です。幼い頃から美術が好きだった私は、興味本意で大学の陶芸クラブを覗いたのがきっかけで、すぐにやきもの魅力にとりつかれました。
その当時から世界的に有名であった安宅コレクションが、1978年、京都国立博物館で「安宅コレクション東洋陶磁展」として開催されました。私は観に行き、中国宋時代の青磁・白磁、そして朝鮮半島の高麗青磁・李朝白磁は、形、釉色、釉肌の全てが逸品で、魂を揺すぶられる衝撃を受けたのです。少し大袈裟かも知れませんが、大陸から渡ってきた連綿と連なるDNAを感じる想いでした。
中国は元時代・龍泉窯の飛青磁花生、南宋時代・龍泉窯の青磁鳳凰耳花生、北宋時代・耀州窯の青磁刻花牡丹唐草文瓶などの名品の青磁は、当時の中国では 「君子の徳は玉(ぎょく)のように温和で潤沢である」と言われ玉が高く崇拝されていました。碧玉(へきぎょく)に酷似した青磁は「假玉器(かぎょっき)」と称され、珍重されたのです。これらを目の当たりにして、迷うことなく私はやきものを天職にしようと覚悟を決めたのです。そして身の程もわきまえず、自分もこのような青磁のやきものを焼いてみたいと思ったのが二十歳の時でした。
修行時代
大学卒業後は陶芸の基礎を身に付けるべく、京都市工業試験場で釉薬の研究をし、京都府立陶工職業訓練校でロクロ成形を学び、清水焼の窯元で修業時代を過ごしました。その間、自分なりに研究し焼き上がったテストピースを手に、大阪市立東洋陶磁美術館に足繁く通っては見比べ模索を重ねました。
しかし、あの時目に焼き付いた安宅コレクションのやきものの、私が理想とする青磁・青白磁は求めれば求めるほど、「これとは違う」ともどかしさや挫折感を抱き、さらに遠のく想いでした。
青磁の青は顔料による発色ではなく、釉薬や陶土の中に含まれる鉄分の含有量によって色調が変わってきます。窯の焼成の影響も大きく、窯の中を酸欠状態にし、CO濃度を高め不完全燃焼焔で焼成することによって青くなります。
宋時代の陶工達が求めた、碧玉のような幽邃清澄な青色を出すためには鉄分の含有量と窯の還元焔状態の微妙な調整が必要で、非常に技術力に裏付けられた経験値が求められるのです。
しかし、自分も若輩な未熟者であったことに加え、釉薬の原料が二千年以上前と現代とでは、物理的にも違いがありました。また、当時の陶工達は官窯の厳しい支配下に置かれ命を賭しての制作環境と、現代の私とでは精神性に大きな違いがあることを痛感しました。当時の陶工達は碧玉への憧憬から青を極致まで表現しようとした執念から、切磋琢磨を重ねて技術の向上を求めました。その偉大なエネルギーに只々敬服する想いでした。
築窯 独立
独立の際、滋賀・湖西の地の、空の蒼、湖の碧が私の追い求める青磁のイメージに重なり、比良山麓の琵琶湖を望む高台にアトリエを構えました。後年に読んだ本の中に、古来先達もやはり、青磁に玉(ぎょく)や空や水の青を写し取りたいと願い、土を探して行き着いた所が湖畔近くであったとの記述に、共感したのを覚えています。
眼下に満々と水を湛えた琵琶湖を臨み、比良山系や里山の自然が織り成す四季の移ろいの中に身を置き、この森羅万象をフィールドとして作陶の糧とした今、自分もまた、自然の一部であることを感じるのです。こうした心境になった頃から気負いが抜けたと言いましょうか、私のやきものに対する想いは、「現代に生きる今の自分の青磁、自分だけのやきものを。」との気持ちに変わっていったのでした。
私のやきもの考
創り手としてやきものを改めて考えてみますと、私の前には何代にも遡り名も無き陶工達がいて、さらに遡ると縄文土器に辿り着きます。
縄文時代、男は狩りに出、やきものを造ったのは女でした。シャーマンである女は神との交信を司る神秘な存在でした。女性の手によって壷形が創造されるのは自然な成り行きで、女性は自らの内から、大切なものを包み込む形を知っていたのです。壷形それは子宮のかたち、子宮は別の名を「子壷」と言い、子を宿し生み育む女性の生命のエネルギーが、生への祈りの呪術の具現化として縄文土器の装飾や造形となったのです。
やきものは1万2千年に亘り人々に受け入れられ作り続けられてきました。それは生命が連鎖しているからです。縄文土器には生命のエネルギーが内在しています。そして、弥生土器、須恵器・・・と時代を重ねるごとに、その時々の陶工達のやきものに対する強い想いと高度な技術が優れたやきものを生み出し、それが次の時代の人々に感動を与えながら、生命のエネルギーが連鎖します。そして現代に生きる私がやきものに込めるのもまた生命のエネルギーなのです。こうして生命が繋がり連鎖は絶えることはありません。自然もまた循環連鎖しています。土と水と火の混然一体であるやきものに、創り手である私が生命のエネルギーを吹き込みます。焼き上がったやきものは人々に愛でられ、さらに生命のエネルギーが注がれモノとしての域を超え、人々を癒し安堵の対象と成り得るのです。そうしたやきものが歴史を刻み、文化を生み、時空を超えて人々に感動の連鎖をもたらすのです。
なぜ私は「ものつくり」を続けるのでしょうか。それは 何万年と生命の連鎖が繰り返される悠久の時の流れの中で、私もほんの一瞬バトンを託された者に過ぎないけれども、それでも、後世の人に受け継がれるバトンを渡したいと願うからです。そのバトンには一陶工として、私が青磁に魅力を感じて止まない青磁の持つ清楚さ、品格を自分の内に持ちたいと願う想いをのせて渡せられたら、と思うのです。創り手である私は、少しでも感動の連鎖の担い手として、今の時代に関わりたいと願い創作を続けています。
私のやきもの考
創り手としてやきものを改めて考えてみますと、私の前には何代にも遡り名も無き陶工達がいて、さらに遡ると縄文土器に辿り着きます。
縄文時代、男は狩りに出、やきものを造ったのは女でした。シャーマンである女は神との交信を司る神秘な存在でした。女性の手によって壷形が創造されるのは自然な成り行きで、女性は自らの内から、大切なものを包み込む形を知っていたのです。壷形それは子宮のかたち、子宮は別の名を「子壷」と言い、子を宿し生み育む女性の生命のエネルギーが、生への祈りの呪術の具現化として縄文土器の装飾や造形となったのです。
やきものは1万2千年に亘り人々に受け入れられ作り続けられてきました。それは生命が連鎖しているからです。縄文土器には生命のエネルギーが内在しています。そして、弥生土器、須恵器・・・と時代を重ねるごとに、その時々の陶工達のやきものに対する強い想いと高度な技術が優れたやきものを生み出し、それが次の時代の人々に感動を与えながら、生命のエネルギーが連鎖します。そして現代に生きる私がやきものに込めるのもまた生命のエネルギーなのです。こうして生命が繋がり連鎖は絶えることはありません。自然もまた循環連鎖しています。土と水と火の混然一体であるやきものに、創り手である私が生命のエネルギーを吹き込みます。焼き上がったやきものは人々に愛でられ、さらに生命のエネルギーが注がれモノとしての域を超え、人々を癒し安堵の対象と成り得るのです。そうしたやきものが歴史を刻み、文化を生み、時空を超えて人々に感動の連鎖をもたらすのです。
なぜ私は「ものつくり」を続けるのでしょうか。それは 何万年と生命の連鎖が繰り返される悠久の時の流れの中で、私もほんの一瞬バトンを託された者に過ぎないけれども、それでも、後世の人に受け継がれるバトンを渡したいと願うからです。そのバトンには一陶工として、私が青磁に魅力を感じて止まない青磁の持つ清楚さ、品格を自分の内に持ちたいと願う想いをのせて渡せられたら、と思うのです。創り手である私は、少しでも感動の連鎖の担い手として、今の時代に関わりたいと願い創作を続けています。
表現
私は磁土という素材を使って表現活動をしているのですが、表現を私なりに高めていこうと考える時、そこには技術と作品への強い想いをバランス良く高めていくことによってさらに高みの作品が成されるように思います。そしてその根底にある生まれ持ち得た感性をさらに研ぎ澄まさせる努力をし、作品に反映できればと思っています。
私にとって表現とはどういうことなのかと考える時、「表現」は「あらわす」と言う漢字を二つ重ねて書きます。一つ目の「表す」は技術(skill)で、もう二つ目の「現わす」は想い(will)です。このskillとwillのバランスが大事なように思います。いくら高度な技術があっても、発想力、強い想いがなければ形になりません。逆にイメージがいくらあっても技術が伴わなければ、形になりません。お互いを自分の中で高めていくことが大事なのです。
工芸は時間と経験の積み重ねのように思います。しっかり眼と手と頭の触角を敏感にし、これからも制作に励みたいと思っております。
堆磁(ついじ)技法
磁土を泥漿(でいしょう)にして、筆で幾度も塗り重ねる手法、これを私の造語でありますが、堆磁手法と定義して、造形表現をしています。現在私は制作テーマとして「生命」を表現したいと考えています。「生命」から発想するイメージは命の根源である水や、悠久の時の中で人体に組み込まれたDNA羅線なのです。それらを堆磁ラインにより造形表現しています。
私が作品創りの上で、いつも意識していることは、緊張と緩和をもたせたフォルムと堆磁のラインや、静と動、あるいは青と白の色だったり、また、ボディにほのかに醸し出される光と影と言った、相対する二面的要素を対比させつつ、それらの融合と言うものを意識しています。堆磁手法を用いたラインを、内面から口縁部をなめて外面へと施し、内外の装飾を関連付けて、堆磁が単なる表面装飾に留まる事なく、造形としての一体化を目指して制作しています。
堆磁(ついじ)技法
磁土を泥漿(でいしょう)にして、筆で幾度も塗り重ねる手法、これを私の造語でありますが、堆磁手法と定義して、造形表現をしています。現在私は制作テーマとして「生命」を表現したいと考えています。「生命」から発想するイメージは命の根源である水や、悠久の時の中で人体に組み込まれたDNA羅線なのです。それらを堆磁ラインにより造形表現しています。
私が作品創りの上で、いつも意識していることは、緊張と緩和をもたせたフォルムと堆磁のラインや、静と動、あるいは青と白の色だったり、また、ボディにほのかに醸し出される光と影と言った、相対する二面的要素を対比させつつ、それらの融合と言うものを意識しています。堆磁手法を用いたラインを、内面から口縁部をなめて外面へと施し、内外の装飾を関連付けて、堆磁が単なる表面装飾に留まる事なく、造形としての一体化を目指して制作しています。
器本体と同じ土を水で薄く解いた泥漿を塗っていきます。筆さばきは筆の跡が残らないように手早いスピードで塗っていきます。大事なのは泥漿の筆の含みです。一度に厚く盛ろうと思いますと、どうしても剥離したり切れたりしますので、筆の含みを一定にして均一になるべく伸ばしていくと言う所に気を付けます。塗っては乾くのを待ち、また塗る。これを日を跨ぎおよそ30回繰り返します。